ただ見上げるより この手を伸ばしてみたくなるだけ (ポコアポコ/カヒーナムジカ)
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 2月はなんだか色々な事がありました。
 整理して書いていくと、それだけでもう何日かかるやら(苦笑)。
 いくらか大事なこともあるので、将来的に思い起こして書くかも知れませんが、とりあえず今はやめておきます。

 それはそうと。
 今日、取り寄せていたARIANの上級ルルブが届きました。
 机の中に眠っていた図書券を使ってしまおうと、わざわざ普通の書店に注文に出したので、少し待つはめになったわけですが。
 というわけで、この上級ルルブへのコメントをば。
 …本当はARIANについてコメントするのが切なくなってきたので、やめようと思っていたのですが…。
 ただちょっと気づいてしまったことがありまして。
 
 本を読む速度が、同好の士に比べて遅い私ですからもちろん、まだほとんどの部分を読んでません。
 本当はOukaでのGMが控えているので、シナリオを作らねばならず、ARIANを読んでいる場合ではないのですが。
 ただどうしても気になったところがありまして。主に追加ルールやプレイングガイドのあたりをざっと見て、拾い読みしました。
 データーとかは後で良いのですよ。大して興味ないし(笑)。

 スクウェア戦闘は想像していたのより簡単ですね。これはこれで悪くないのです。
 スクウェアやヘクスは、凝れば凝ったなりに楽しく(某Gは除く)、さっぱりしていればそれこそ将棋レベルまでさっぱりしていても支障がないのですから、不思議ですね。

 さて否が応でも目についてしまったのが「はんどあうと」なる代物。フィア社のもはや看板となった感もあり、すでに色々な人が喧々囂々議論しているところであり、今更コメントするのも嫌だったのですが。
 しかし今日、私の中で色々な疑問点がすっきりしたのでメモしておかねばならないようです。

 実のところ「はんどあうと」に骨格的には近いものを私はもう少し混乱して不整合な形で、HTTグランドキャンペーン「もういちど空へ」で使っているのです。
 そういう点から鑑みてみて、私にはんどあうとを拒否する理由はないはずなのです。
 にも関らず、BoAにはんどあうとが導入された時から、強烈な違和感を感じ続けていたのでした。
 何が問題だったのでしょうか?
 今日はっきりと悟ったことは、「はんどあうとはプレイヤーの心の中に踏み込みすぎる」という点でした。

 例えば上級るるぶに載っている例では、「君には父親がいる。君が尊敬していた」云々といった趣旨のことが書かれています。(記憶からの抜き出しなので、細部違うかも知れません)
 尊敬しているかどうかはプレイヤーが決めればよろしい。
 父親が行方不明だとか、そういったPCにとって重要な設定も、GMが土足で上がりこむべき事柄ではないと信じています。
 どうしてもPCが父親を探していることにしたいって?
 ならば「こうこうしたいんで、行方不明の父親が欲しいんだけど、どうかな?」とプレイヤーに了承をとるべきだと思うのです。
 ちゃんと靴を脱いで、礼儀正しく挨拶をして欲しいと。
 その上で、父親との関係だとか、過去にあったできごとなんかはプレイヤーに考えて貰った方が良いと思うのです。
 それを断るプレイヤーは少ないですし、何か嫌がられる部分があったとしても「ここを直してもらえればOK」という修正案は簡単に出てくるはずです。
 そこをGMが強引に「こうこうだ」と宣言してしまう(という形になってしまう)ことが、私はとても嫌だし、拒否感が強いのです。

 つまり問題なのははんどあうとという形式そのものではなく、そこに掲載される例文ということになります。
 しかし、この「例文」がやっかいです。
 こういった例文を元にして、「はんどあうとはこういう感じ」という共通認識が出来上がってしまっているのです。その慣習に反対するわけですから、結局はんどあうとそのものに反対しているのと似たり寄ったりです。
 総論賛成各論反対が、総論反対と大して違いがないことと同じような、そんな感じです。
 やれやれ。


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 本を読む速度が、同好の士に比べて遅い私ですからもちろん、まだほとんどの部分を読んでません。
 本当はOukaでのGMが控えているので、シナリオを作らねばならず、ARIANを読んでいる場合ではないのですが。
 ただどうしても気になったところがありまして。主に追加ルールやプレイングガイドのあたりをざっと見て、拾い読みしました。
 データーとかは後で良いのですよ。大して興味ないし(笑)。

 スクウェア戦闘は想像していたのより簡単ですね。これはこれで悪くないのです。
 スクウェアやヘクスは、凝れば凝ったなりに楽しく(某Gは除く)、さっぱりしていればそれこそ将棋レベルまでさっぱりしていても支障がないのですから、不思議ですね。

 さて否が応でも目についてしまったのが「はんどあうと」なる代物。フィア社のもはや看板となった感もあり、すでに色々な人が喧々囂々議論しているところであり、今更コメントするのも嫌だったのですが。
 しかし今日、私の中で色々な疑問点がすっきりしたのでメモしておかねばならないようです。

 実のところ「はんどあうと」に骨格的には近いものを私はもう少し混乱して不整合な形で、HTTグランドキャンペーン「もういちど空へ」で使っているのです。
 そういう点から鑑みてみて、私にはんどあうとを拒否する理由はないはずなのです。
 にも関らず、BoAにはんどあうとが導入された時から、強烈な違和感を感じ続けていたのでした。
 何が問題だったのでしょうか?
 今日はっきりと悟ったことは、「はんどあうとはプレイヤーの心の中に踏み込みすぎる」という点でした。

 例えば上級るるぶに載っている例では、「君には父親がいる。君が尊敬していた」云々といった趣旨のことが書かれています。(記憶からの抜き出しなので、細部違うかも知れません)
 尊敬しているかどうかはプレイヤーが決めればよろしい。
 父親が行方不明だとか、そういったPCにとって重要な設定も、GMが土足で上がりこむべき事柄ではないと信じています。
 どうしてもPCが父親を探していることにしたいって?
 ならば「こうこうしたいんで、行方不明の父親が欲しいんだけど、どうかな?」とプレイヤーに了承をとるべきだと思うのです。
 ちゃんと靴を脱いで、礼儀正しく挨拶をして欲しいと。
 その上で、父親との関係だとか、過去にあったできごとなんかはプレイヤーに考えて貰った方が良いと思うのです。
 それを断るプレイヤーは少ないですし、何か嫌がられる部分があったとしても「ここを直してもらえればOK」という修正案は簡単に出てくるはずです。
 そこをGMが強引に「こうこうだ」と宣言してしまう(という形になってしまう)ことが、私はとても嫌だし、拒否感が強いのです。

 つまり問題なのははんどあうとという形式そのものではなく、そこに掲載される例文ということになります。
 しかし、この「例文」がやっかいです。
 こういった例文を元にして、「はんどあうとはこういう感じ」という共通認識が出来上がってしまっているのです。その慣習に反対するわけですから、結局はんどあうとそのものに反対しているのと似たり寄ったりです。
 総論賛成各論反対が、総論反対と大して違いがないことと同じような、そんな感じです。
 やれやれ。

【2006/02/25 01:02】 | トークRPG
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