ただ見上げるより この手を伸ばしてみたくなるだけ (ポコアポコ/カヒーナムジカ)
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 J-popにしろアニソンにしろ、「あなたらしく」「君らしく」「自分らしく」こういった言葉は山ほど溢れています。
 確かに日本人には、自分を押し殺したり偽ったりして周りに合わせたり、とかく周りと比べて自分はどうなんだろうと悩む傾向があるようです。しかしそういう無理はどこかに歪みとして溜まるもので、息苦しさを感じたり、開放へ憧れを感じたりすることそのものは自然なことです。
 歌という、自己表現でもありうる存在が、そういう状況にある人、そういう境遇にあった過去に対して、「自分らしくて良いんだよ、周りに無理にあわせたり、周りと比べたりすることはないんだよ」と謳うこと、それそのものはごくごく自然なことではあります。
 それを誰か一人、二人が歌っているのならば問題はありません。
 しかし、仮に「自分らしく」が多くの人に受け入れられやすいテーマであり、「とにかくそういう歌を歌えば支持される」という状況が発生しているのだとしたら、おそらく世界は軋み始めています。
 
 「人気があるからそれをする」という発想の一つの問題点は、「何故それが人気が出たのか」という背景を無視することが往々にしてあることです。
 にも関らず、人気が出たことを真似する場合、往々にしてその真似も支持されるようです。
 その真似がさらに広まり、定型句のように使われる段階まで来ると、とにかくどんなアーティストでもとりあえずそれを使うようになります。なってしまいます。
 おそらく歌と世界は相補的で、歌がそういう段階になっている時には、歌以外にも様々な経緯を経て「自分らしさは大切だ」という価値観が形成されているのでしょう。
 問題はその先。
 「自分らしく」という歌、そういう物語、そういう価値観が大事だと言う意見、そういうものをシャワーのように浴び続けた結果、「自分らしく」という観念は主体性を持たない、先入観のような存在になってしまいます。
 多くの人がそういう価値観を持っているのですから、確かに「自分らしく」という曲は支持されるでしょう。
 ところが、その「自分らしくありたい」という考え方そのものが、すでに自分らしくなくなっているのです。
 そして先入観と化した概念は他の価値観を跳ね飛ばし、本来必要なはずの他者のとの協調や妥協、多少の我慢だとか言ったものを頭から完全否定する根拠になっていきます。(全員がそうではないにしろ)
 それは、かつて協調を美徳とし自己の抑制を要求してきた、「自分らしさ」が戦ってきた相手、それと同じものになってしまっているのです。やがて「自分らしさ」は凶器となって人々に襲い掛かってくるに違いありません。
 それにも関らず、歌や物語は「自分らしく」とがなり立て続けているのです。

 世間的に受け入れられやすいもの、支持されるもの、そういうものは基本的に過去に存在した価値観です。その価値観は過去に起こった出来事・事実などをその基礎においているのです。未来志向ではなく、現実より一歩手前の過去の反映です。
 確かにその価値観が誕生した時には、その価値観は非常に大事な事であったに違いありません。その事は疑いないでしょう。
 ところが、広く広まった時にはすでに古いのです。その価値観による弊害が発生し始めています。今はその価値観のアンチ・テーゼかジン・テーゼが必要になっているのです。
 特に文化的な面において、世間的に受け入れられやすいもの・支持されるものを生産する、生産し続けるという行為は基本的に過去礼賛であり、弊害助長であり、ひどい時には犯罪への加担なのではないでしょうか。
 文学も絵も歌も、世間一般的なものへの迎合ではなく、それに苦しめられている人間を助け、翻される叛旗となった時代があります。そういう歌こそ、今必要なのではないでしょうか。

 …そのことに思い至って、私は冷や汗をかいてしまったのです。
 そして、反骨の気質だけが私を安心させ得るという、私のもっとも原点に近い部分を思い出したのでした。

 難しいのは、それも「自分らしさ」であると言う点です。
 けれども、それを「世の中は矛盾に満ちているのさ」などとニヒルに肩をすくめてみせる事ほど下らないことはありません。
 他者への説明は困難でも、自分らしさに準拠した「自分らしさ」への抵抗は、確かに形作ることができるからです。


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 「人気があるからそれをする」という発想の一つの問題点は、「何故それが人気が出たのか」という背景を無視することが往々にしてあることです。
 にも関らず、人気が出たことを真似する場合、往々にしてその真似も支持されるようです。
 その真似がさらに広まり、定型句のように使われる段階まで来ると、とにかくどんなアーティストでもとりあえずそれを使うようになります。なってしまいます。
 おそらく歌と世界は相補的で、歌がそういう段階になっている時には、歌以外にも様々な経緯を経て「自分らしさは大切だ」という価値観が形成されているのでしょう。
 問題はその先。
 「自分らしく」という歌、そういう物語、そういう価値観が大事だと言う意見、そういうものをシャワーのように浴び続けた結果、「自分らしく」という観念は主体性を持たない、先入観のような存在になってしまいます。
 多くの人がそういう価値観を持っているのですから、確かに「自分らしく」という曲は支持されるでしょう。
 ところが、その「自分らしくありたい」という考え方そのものが、すでに自分らしくなくなっているのです。
 そして先入観と化した概念は他の価値観を跳ね飛ばし、本来必要なはずの他者のとの協調や妥協、多少の我慢だとか言ったものを頭から完全否定する根拠になっていきます。(全員がそうではないにしろ)
 それは、かつて協調を美徳とし自己の抑制を要求してきた、「自分らしさ」が戦ってきた相手、それと同じものになってしまっているのです。やがて「自分らしさ」は凶器となって人々に襲い掛かってくるに違いありません。
 それにも関らず、歌や物語は「自分らしく」とがなり立て続けているのです。

 世間的に受け入れられやすいもの、支持されるもの、そういうものは基本的に過去に存在した価値観です。その価値観は過去に起こった出来事・事実などをその基礎においているのです。未来志向ではなく、現実より一歩手前の過去の反映です。
 確かにその価値観が誕生した時には、その価値観は非常に大事な事であったに違いありません。その事は疑いないでしょう。
 ところが、広く広まった時にはすでに古いのです。その価値観による弊害が発生し始めています。今はその価値観のアンチ・テーゼかジン・テーゼが必要になっているのです。
 特に文化的な面において、世間的に受け入れられやすいもの・支持されるものを生産する、生産し続けるという行為は基本的に過去礼賛であり、弊害助長であり、ひどい時には犯罪への加担なのではないでしょうか。
 文学も絵も歌も、世間一般的なものへの迎合ではなく、それに苦しめられている人間を助け、翻される叛旗となった時代があります。そういう歌こそ、今必要なのではないでしょうか。

 …そのことに思い至って、私は冷や汗をかいてしまったのです。
 そして、反骨の気質だけが私を安心させ得るという、私のもっとも原点に近い部分を思い出したのでした。

 難しいのは、それも「自分らしさ」であると言う点です。
 けれども、それを「世の中は矛盾に満ちているのさ」などとニヒルに肩をすくめてみせる事ほど下らないことはありません。
 他者への説明は困難でも、自分らしさに準拠した「自分らしさ」への抵抗は、確かに形作ることができるからです。

【2006/03/08 01:10】 | 哀心よりお悔やみ申し上げます
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